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「自然とともにあることが、私たちの体にいちばん合っているんじゃないかしら」と話すのは、「つぶっこ(雑穀)楽膳教室」主宰の高橋季みさん(73)。その波瀾万丈の人生をひもとくと、ウィズ・コロナの世界でこそ取り入れたい、生き方・暮らし方のヒントがちりばめられていましたーー。

 

「らっきょうの塩漬け、梅干し、梅の酵素ジュースに豆板醤……。この季節はつくるものがいっぱいあって、毎日が忙しいんですよ」

 

少女のような、天真爛漫な笑顔で話すのは高橋季みさん。千葉県東金市にある一軒家で月に数回、雑穀や発酵食品、季節の食材を使った楽膳教室を開き、庭の畑の手入れをしつつ、合間に季節の保存食をつくり、本人いわく“自然と遊びながら”暮らしている。受ける印象からは想像できないが、その人生は波瀾万丈で情熱的。「自分の思い」に正直に生きてきた。

 

季みさんは’47年4月、兵庫県豊岡市にて、4人きょうだいの長女として生まれた。海、山、川に恵まれた土地で、活発で体格もよかった彼女は、地元の言葉で“ごんた”と呼ばれるガキ大将だった。

 

高校の社会学研究部の活動で知り合ったのが、最初のパートナー。沖縄返還への願いを込めた行進のときだった。

 

「彼は沖縄出身で、神戸大学の医学生でした。その影響もあって神戸の看護学校に進学しましたが、早々に寮を飛び出し、神戸の大学に進学していた兄、そして彼と3人で暮らすようになりました。私は3食と、お弁当づくりの担当で、週に一度、2人を引き連れて市場へ買い出しに行き、あとは野草なんかを活用して。まわりからは『季みちゃんは、なんでもおいしい食べものに変えるのね』なんて、驚かれていました」

 

看護師と保健師の資格を得て卒業し、’71年に24歳で結婚。3人の子どもを授かり忙しい日々を送っていた。

 

そんなある日、季みさんが訪れたのは、11弦ギターのギタリスト・東民正利氏のライブ。’87年のこの出会いが、彼女の人生を変える。

 

「同行した父や長女とともに、とても感動し、彼が紡ぎ出す世界に深く惹かれてしまって。その後、娘の学校の催しに出演してもらうなど、交流が始まりました」

 

東民正利氏は’51年生まれ。現・東京都立大学で建築学などを、ロンドンのギルドホール音楽院でギターを学んだ人で、当時は宮沢賢治の世界を弾き語りで伝える、ギタリストとして活躍していた。

 

「彼から届く手紙は抽象的で、私には理解できないことばかりでした。でも、自然や宇宙とともにどう生きていくかを模索するその世界に、少しでも近づきたいと思うようになって。数年後、地球環境の悪化や住みにくくなる世の中を憂い、この先の表現活動に悩んでいた彼から相談を受けると、父が所有していた小さな庵を提供することにしたんです。2カ月くらいだったでしょうか。悩み抜いた彼が表現方法として選んだのが“舞う”ことでした」

 

名前を一鷲明伶(いっしゅうはるあきら)と改め、「汎舞」という新しい創作活動をスタート。季みさんも忙しい生活のかたわら、その活動を支えるように。

 

「’92年に明石の住吉神社で行われた公演では、漁協や青年会議所にかけ合い、成功に向けて舞台を整えました。やると決めたら即行動。できると信じて突き進む性格なんです。そんな活動を続けるうちに、いつしか彼が人生の大切なパートナーとなっていました」

 

’94年4月、季みさんは47歳になる誕生日の前日、離婚届を置いてだまって家を出た。

 

「前の主人のことは、人間としても医師としても尊敬していたし、信頼もしていました。でもそのときは、一鷲とともに生き、彼の世界を世に伝えるお手伝いをすることがすべてでした。子どもたちだけには事前に伝えていましたが、そのとき次女が言ってくれた『お母さん、一鷲さんと2人で地球を変えてちょうだい』という言葉が忘れられません。自分が自分としてちゃんと生きていれば、子どもたちもそう生きてくれると思ってはいましたが、かわいそうなことをしたかな、とも……」

 

その年の秋に行われた結婚式には、子どもたちも参列した。

 

「彼は子どもたちとも一人の人間として向き合ってくれましたし、彼らも一鷲を尊敬していました。今も親子でいられるのは、前の主人への感謝はもちろんのこと、一鷲のおかげでもあると思っています」

 

千葉に移住し、写真家・細江英公氏が演出する舞台や、建築家・隈研吾氏が空間をデザインする舞台など、二人三脚で数々の創作活動を続けていくが、芸能で食べていくのは難しく、それまでとは打って変わって極貧生活に。季みさんは、リサイクル店などでアルバイトをして生活を支えた。

 

「お米が買えず、いただいたじゃがいもが主食の時期もありました。それでも一鷲は『こんなにおいしいならボク、(じゃがいもが主食の)ロシア人になってもいいな』なんて喜んでくれて。アルバイト仲間や近所の方々から助けていただいたり、学生時代と同様に自然のものを工夫したりして、貧乏でも暮らしは楽しかった。人間、生きていればなんとでもなるのです」

 

人からの援助は、恥ずかしいことでも、卑屈になることでもない。

 

「いつか直接お返しする、というのとも違って、世の中は循環していると思っているんです。だから、自分は自分で、できることをすればいい。困っているときは、ありがたく助けていただきます。物が行き来するのは、心が行き来するのと同じで、当たり前のこと」

 

そんな季みさんがつくる発酵食品は、不思議なほど元気。神戸で食していたドイツパンが恋しくなり、本で勉強してつくったという自然酵母もそのひとつで、もう19年も生き、多くの人に株分けしている。

 

「でも、みなさんから喜ばれてうれしそうな私を見て、一鷲が言いました。「君の力だと思っちゃいけないよ。うちにいる妖精たちがやってくれたんだ」と。発酵を促す微生物たちのことを、彼は妖精と表現したのですが、以来、私も妖精たちにいつも感謝しています」

 

一鷲さんは2016年1月、突然にこの世を去った。

 

「持病もなく、昨日まで元気に働いていたのに、突然。まるで寿命が尽きたようでした。寂しいけれど、妖精たちとこの家の中に生き、守ってくれている気がします。発酵保存食のおかげか、風邪もひきませんし、カテキンや赤梅酢、柿酢など天然の殺菌作用があるものを食べているので、コロナウイルスだって怖くはありません。敵として闘うのではなく、共存していくつもり。むしろ化学的なもので殺菌することは、人間にとっても有害で危険な気がします」

 

自然とともに生きることの意味は、今なお模索中だ。

 

「まだ、表面をなぞっているだけ。でも、今になって腑に落ちたこともあります。昔、小学校の教室に『あそべ、あそべ、学べ』という標語があり、なぜ『学べ』が先じゃないのか不思議でしたが、ああ、こういうことかと。この先もきっと私は、自然と遊びながら多くを学んでいくのだと思います」

 

「女性自身」2020年7月28日・8月4日合併号 掲載

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