「海鮮ピザが入りました!」
調理場に声が届くと、土井スズ子さん(95)は、発酵させたピザ生地を丁寧に延ばし始める。香ばしく焼き上がったピザは、子ども連れの家族のテーブルへ。
「ふんわりしておいしい!」
「アサリがプリプリしているね」
今年1月の誕生日を境に“耳が遠くなった”というスズ子さんだが、厨房にいてもその声はしっかり耳に届く。スズ子さんは、少し満足そうに目を細めた。そんなお客さんの声はやはりうれしいですか? と記者がたずねるとーー。
「そりゃ、おいしいと言ってくれて怒ることはないでしょ! それがやりがいとか楽しみですか、と聞かれることが多いけど、難しいことはわかりません(苦笑)」
ハキハキとそう語るスズ子さんは、“東京の台所”豊洲市場にある唯一の本格イタリアン「トミーナ」でピザを焼いている職人だ。毎朝11時には出勤。定休日以外は、15時まで3〜4時間、立ちっぱなしでピザ窯を見守っている。
「足腰を鍛えるのに、これがいちばんいいんですよ。ほかに体にいいことは何もやっていないの。家にいてテレビを見ているよりも、ピザを焼いていたほうが楽しいし、私がいないとお客さんが困ってしまうから」
スズ子さんがピザ作りを始めたのは20年前。なんと75歳を過ぎてからだ。一人娘で、現在トミーナのオーナーを務めている冨山節子さん(73)夫妻が、築地市場でイタリア料理店を経営していたことがきっかけだった。
「娘が忙しく仕事をしていて、私が2人の孫の面倒をみていましたが、孫たちも大きくなって手が離れたころ、店が人手不足と聞いて。それで、私から『手伝おうか』と声をかけたんですよ。それまでピザを焼いたことはなかったけど、おやきを焼くようなものじゃない、って(笑)」
私にもできると思った、と笑顔で語るスズ子さんだが、節子さんもその“腕前”には太鼓判を押す。
「母が作るピザは、ふんわりしていながらさっくりしているんです。イタリアで修行した私でもこの食感は出せません。年をとったことで力が出なくなったことが、逆にいいのかも。ピザ生地を優しく延ばしていくから、ほどよい厚さになって、水分が残ってふっくらとなるのでしょう」
本誌記者も、スズ子さんが焼いた「海鮮ピザ」を実食。エビ、ホタテ、ムール貝、アサリなど新鮮な具がたっぷりのせられたピザは、「もう1枚!」と言いたくなるような絶品!
「母は適当に作っていると言っていますが、毎日、自分で焼いたピザを試食しながら、研究を続けているんですよ。魚介類やチーズは、この人“採算度外視”でてんこ盛りにしちゃうの。経営者としては大変なんです……(苦笑)」
そう話す節子さんを見て、スズ子さんがすかさず、「この人はケチなのよ!」と白い歯を見せた。
コロナ禍で、全国の飲食店は大きなダメージに苦しんでいるが、トミーナも例外ではない。市場の施設内にあるため緊急事態宣言下でも営業は続けていたが、一般客の入場は長期間制限された。1日の来客が市場関係者3人のみ、という日もあったそうだ。スズ子さんはこう語る。
「人生はなるようにしかなりませんよ。でも、こういうときだからこそ、ご近所の飲食店と絆を確かめることができました。全国から新鮮な食材を届けてくれる市場の人、業者さんへの感謝の気持ちを忘れてはいけませんね」
「女性自身」2021年4月27日号 掲載