【前編】夏の売りは“ひんやり”あずきかき氷 女性三代で営む甘味処の看板娘90歳から続く
「まるか村松商店」が甘味処をはじめたのは昭和37年のこと。茶の斡旋業の閑散期に、大判焼きを売り出したという。
加寿子さんがこう語る。
「発案は義母です。厳しい人でお茶の商いのこと、家を守ることをたたき込まれました。なにより大事なことは、人に喜んでもらうことだと。大判焼きのあんこ作りは、最初から私の仕事。炊き方は、最初は親戚のお菓子屋さんに教わり、それからは自分なりにね」
そんな甘味を求めて通っている人も多いが、それに加えて、アットホームな雰囲気にひかれて、子どもからお年寄りまで、男性も女性も、さまざまな人が足を運ぶ。
「体重気になるなら、おしるこのお餅、抜いとこうか?」
「なんのお菓子を買う? それより夏休みの宿題やったの?」
「最近、見かけなかったけど、体調でも崩していた?」
小豆と向き合う加寿子さんの代わりに、弘美さんが客に話しかける。そこから世間話やら近況報告、地域のイベントなどの会話が行き交う。壁にはコロナ禍の名残の「黙食を」の張り紙があるが誰も気にしない。
この店を23歳で継いだ弘美さんが醸し出す空気もこの店の魅力のひとつだろう。そんな弘美さんだが、積極的に店を継いだわけではない。
「甘いものは好きだったし、小さいころから大判焼きを手伝ってもいました。けれど、地元のお茶屋さんに勤めていたし、店は姉が継ぐものだと思っていました。姉は確かな味覚を持っているんですよ。
ところが姉が一時期東京へ仕事で出ていたころに、私は3人きょうだいの次男だった夫と縁がありました。私たちなら家を継げるだろうと、親戚からも『結婚して家に入れ』という流れができてしまったんです」(弘美さん)
現在、弘美さんは、姉、眞由美さん(67)とともに、常連客と会話が弾む接客をしながら大判焼きを作っている。
「最初は、大判焼きの皮もいろいろ試しました。大判焼きは表面がサクッとして、中はふんわりした食感が大事。そのためにはゆっくり焼いていくことです。でも、あるとき、近所の人に『怖い顔をして大判焼きを焼いている』と言われたことが。
母の味を守ろうと必死だったのかもしれません。それからは、誰が見ても、楽しそうだなと思ってもらえたほうがいいかなと。
それに大判焼きは、焼きたてがいちばん。私が焼いているときは姉が、姉が焼いているときは私が、焼きたてを待っているお客さんといろんなお話をしているんです」
さらに、弘美さんがこう語る。
「お客さまと会話していると、すごいつながりが出てくるんです。どちらからいらっしゃったんですか、という会話から、常連さんになってくれることも。また、子どもが店に来たら楽しいと思って駄菓子のコーナーを作ったのも私。
母には『撤去しろ』と言われ続けていますが、いろんな世代と触れ合いが生まれるのがいいんですよ。ちょっと前に、小学生に、100点のテスト用紙を持ってきたら大判焼き1個プレゼントということをやったことも。でも10枚も答案用紙を持ってくる子がいて、あわてて1人1枚までにしました」
味は母が守る。店の空気は娘たちが作る。そんな分担が、いつの間にか村松家に根づいている。 弘美さんは加寿子さんをどう見ているのだろうか。
「母から褒められた記憶も多くはありません。頑張り屋で、負けず嫌い。絶対に弱音を吐かない人です。そんな母と競う気はありません。私は母とは別の場所で店を支えようと思っています」
厨房から出てきた加寿子さんは、そんな娘たちが常連客と楽しそうに話している様子を目を細めて見守っていた。
