「街中の奥さんにキレイになる楽しさを」72歳の美容部員が山間部の町で“日本一”の売り上げを誇るまでの道のり
画像を見る 全国大会で表彰される桂子さん。売り上げ目標を達成するのも、”お客さんをキレイにしたい”という思いがかなうのも、両方がうれしかった

 

■「育児に疲れ切ったママ友を、キレイにしてあげたい」が“お節介”の原点

 

1952年、岡山県の新見市で長谷川桂子さんは誕生。

 

薬剤師だった祖父が1928年に創業した安達太陽堂を両親が継ぎ、父の謙吉さんが薬剤師として、母の伴江さんが化粧品販売員として働いていた。

 

桂子さんが当時を振り返る。

 

「かつては大勢の人でにぎわった新見銀座商店街の薬局でした。母が嫁いでからは化粧品を取り扱うようになり、薬粧店に。自宅は店舗とつながっていたけど、お勤め帰りの女性が来てくれる夕方は多忙。母は本当に“仕事人間”で、一緒に食卓を囲んだ記憶がありません。そんな母を見ていて、私は“絶対こうなりたくない”と思ってね。子どもが学校から帰ってくるとエプロン姿で待っている専業主婦に、憧れを持っていました」

 

祖父、父と薬剤師。安達太陽堂が“薬局”を名乗り続けるには3代目にならなければいけなかったが、桂子さんは薬剤師のレールに乗ることを拒む。中学卒業と同時に故郷を離れ、京都女子大附属の京都女子高等学校に寄宿。さらに高校卒業後は上京し、弁護士を目指して日本大学法学部に進学した。

 

「大学4年間はフォークソングクラブに所属。オーディションを受けたり学園祭で歌ったりすることがとにかく楽しかった。大学卒業後も『店を継いで』という両親の声を耳に入れずに、東京の法律事務所で事務をしていましたね。5歳年下の妹は親の願いどおり薬学部に進み、薬剤師にはなったものの、さっさと都内の外資系製薬会社に勤めてしまいました」

 

東京で働いていたとき、夫の俊二さん(78)と出会い、30歳で結婚。翌年には綾さんを出産した。念願の専業主婦になった桂子さんだが、実は料理が苦手。産後はこんなふうに乗り切っていた。

 

「娘を出産したのは“ブランド産院御三家”と知られる愛育病院。同じ時期に入院していた大手商社マンや経営者の奥さまたち4人と仲よくなったのよ。産後は、その仲間の家に娘と一緒に出かけて、持ってきた食材で食事を作ってもらったりして。でも、みんな子どもと2人っきりで家に閉じこもっているからノーメークで疲れきった顔をしている。ご飯の代わりと言ってはなんだけど、『スッピンなんてあんまりじゃない』と、母が送ってくれた化粧品で、自己流で化粧をしてあげてたわね」

 

美をおろそかにしている人を放っておけない──まるで今の桂子さんとつながっているようだ。

 

その4人の仲間は今でも桂子さんの顧客。化粧水や乳液をわざわざ新見市から送り届けている。

 

「みんなお金持ちの奥さんなんだから東京で買えばいいじゃないと言うんだけど、デパートだと気後れして『もうちょっとお安いのはないの?』と言えないみたいで。私には好き勝手言うのに、東京では百貨店の販売員にもスキを見せたくないのかもしれませんね」

 

そんな都会のある種の息苦しさは、桂子さんが新見市に帰郷したひとつの理由でもある。

 

「子どもが1歳になると、周りは幼稚園の予備校探しを始めたんです。このとき、『ああ、都会の子育てにはついていけない』と思い、窮屈さを感じていました。そして同じころ、店を切り盛りしていた母が乳がんになったという連絡があり、駆けつけたら、『店をつぶしたくない』とずっと言っていて……。幸いなことに夫は、新見市の隣の鳥取県米子市出身で次男。実業家として歩んでいた夫を説得して、家族3人で新見に帰り、店を継ぐことに心を決めたんです」

 

憧れだった専業主婦をやめ、1歳半の娘を抱えて、化粧品販売員に。桂子さん32歳のときだった。

 

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