一口噛みしめると素材の味が口の中に広がる。セットのお新香に箸を付け、絶妙な出汁加減の味噌汁をすする。つかの間、懐かしい記憶が脳裏をよぎる。
米、海苔、塩、そして数々の具材。おにぎりの材料はそれだけ。それなのになぜ、これほど豊かな味がするのだろう。
行列の絶えない大塚のおにぎり屋「ぼんご」。そのおにぎりには、約40年に渡って厨房に立ち続けてきた女将のドラマそのものが包み込まれていた――。
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肉そぼろを煮る甘辛い匂いが漂ってくる。
朝7時、東京・大塚にある老舗おにぎり専門店『ぼんご』の半分閉まったシャッターをくぐって店内に入ると、スタッフが仕込みを始めていた。
2代目店主の右近由美子さん(72)は、カウンターや窓ガラスをゴシゴシと磨きながら、2週間先の予約注文の電話の対応をするなどせわしく働いていた。
そのいっぽうで店の前で開店を待つ客のために丸椅子を並べ、日傘や冷たいお茶を準備するなど気遣いも怠らない。
「’60年に、この店を始めた主人は戦後、進駐軍向けのバンドでドラマーをやっていたんです。アフリカの打楽器のボンゴは、音が遠くまで響き渡るとからと、店名を『ぼんご』にしたそうです」
店名に込めた願いどおり、平日にもかかわらず、9時の開店まで2時間もあるのに行列ができ始めた。この日の一番乗りは台風のため新幹線を利用できず、深夜の長距離バスで名古屋からやってきたという高山健矢さん(22)。
「5年ほど前にテレビ番組でぼんごのことを知りました。それからずっと食べたいと思っていて、去年、初任給で初めて来たんです」
海外からの観光客を含め、開店前には20人近くの行列ができた。食事どきとなると2時間待ちは当たり前、ときには4時間待ちになる人気店なのだ。
「お米は毎日80キロから85キロくらい炊きます。一日に作るおにぎりは1千200個から1千500個くらいですね。その日の天候や水の状態で、炊き方を変えます。
炊き上がって少し蒸らしてから握るのですが、お米は80度くらい。でも熱いなんて言っていられないから、指先が真っ赤になったりするんです」
右近さんが大きな炊飯器のふたを開けると、いきおいよく湯気が上がり、炊き立てのごはんの香りが広がる。
「まな板の前が私のステージ。もっとも輝ける場所なんです」
57種類ある色とりどりの具材を前に、巧みな手さばきでおにぎりを握り始める右近さん。
30歳からほぼ毎日700個ずつ握り、50歳以降も毎日500個は握っているという。計算すると42年間で750万個!
9月30日にスタートした橋本環奈がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説『おむすび』は目には見えない縁、人とのつながりが描かれるというが、まさしく右近さんの半生も同じだった。
「橋本環奈ちゃんが両手で三角をかたどった“おにぎりポーズ”をしていましたが、あれはもともと私のポーズです。環奈ちゃんまねしてくれたのかな(笑)。
私の人生もいろいろあって。苦労大会だとしたら1位になるぐらい……、そう思い込んでいた時期もありました」