ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
画像を見る 19年に撮影したウクライナでの家族写真

 

■妻や親戚とともに野菜を作りながら平穏な余生を送るつもりだったが……

 

英捷さんは、優秀な技師としてフレキシブルに職場を渡り歩いた。工場長や管理職というポストが与えられ奮闘した時期もある。

 

ひとりの技術者として、家族とともに異国の地で懸命に生きた英捷さん。ウクライナ在住は’71年から’22年までの半世紀に及んだ。

 

しかし、ゴルバチョフが80年代後半に始めたペレストロイカにより社会が激変する。91年のソ連崩壊後、英捷さんはウクライナ国籍となった。

 

「ペレストロイカ前後のことは語り尽くせません。社会が混乱し、給料が現物支給されるなど、行き詰まった時期もありました」

 

そしてこのころから、閉ざされていた日本への帰国支援事業が始まっていた。

 

07年8月、英捷さんは64歳にして一時帰国団の一員として初めて日本の地を踏んだ。

 

印象に残るのは、同行した息子が「日本はなんてきれいな国なのだろう」と楽しそうにしていたこと。

 

「帰国支援事業を担っていた日本サハリン同胞交流協会(現・日本サハリン協会)の当時の会長が東京観光に連れていってくれました。私自身は本格的な日本料理を食べて感激し、きれいな道路に感嘆し、日本人の礼儀正しさ、北海道の自然の美しさに感動しました」

 

兄の信捷さんや五女のレイ子さんら、英捷さん以外のきょうだいは’09年までに配偶者らとともに永住帰国を果たしていた。

 

英捷さんは息子や妻を伴い合計3度の一時帰国を経験するなか、日本への「永住帰国」を考えることもあった。しかし結局は「いまから異国で暮らすことは難しい」という妻の意思を尊重した。

 

ジトーミルに、心のよりどころとなる900平方mのダーチャ(菜園付き別荘)も手に入れ、週末には妻の親戚たちと集い、彼らとも固い絆で結ばれていることを感じていた。

 

このままウクライナで妻とともに余生を送っていくのだと信じていた英捷さんに、突然の別れが訪れた。

 

19年、股関節の手術で入院していたリュドミラさんが術後、心筋梗塞を起こし急逝してしまったのだ。

 

そして妻亡き後、息子と暮らした日々もつかの間、ヴィクトルさんも21年に病死してしまう。

 

その後、日本に住む妹から「お兄さんも独りになったのだから、永住帰国したらいいのに」と、日本への帰還を促されるようになった。

 

それでもウクライナには妻子の墓もあり、妻の親戚たちもいる。なによりこの年で日本に帰っても日本語がおぼつかない――。

 

技師としての仕事は12年に引退、その後は地元の修道院で働いた。技師のキャリアを生かし管理や修繕などを請け負い、シスターたちの信頼も得られていた。このまま妻の親戚や孫たちのそばで生きることしか生きるイメージが湧かなかった。

 

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