’15年は宝くじが誕生して70周年。その歴史のなかにはこんなエピソードも!宝くじ70年のトリビアを紹介しよう。
《「勝札」が販売終了時には「負札」になってしまった!》
宝くじの前身は、軍事費調達の目的で政府が発売した「勝札」。ところが発売最終日の8月15日、日本は連合国軍に全面降伏。まだ街頭で「勝札」を売っていた販売員は「負札じゃないか」と冷やかされたという逸話が残る。敗戦はしたが、抽せんはきちんと8月25日に行われた。
《第1回宝くじの抽せん会場は「日本橋三越」だった!》
「勝札」を引き継ぐ形で、昭和20(45)年10月に発売されたのが、第1回宝くじ。人々が集まる適当なホールが見つからず、抽せん会は焼け残っていた日本橋三越本店の1階ホールで行われた。5千人の観客が固唾をのむ中、ベートーベンの『運命』が鳴り響き、抽せん会は始まった。NHKラジオでは、このときから抽せん会の様子を生放送している。
《自分が回した抽選機で1等に当せんした!》
昭和21(’46)年、有楽町で開かれた第3回宝くじ抽せん会。司会者が1等・1万円の当せん番号を読み上げると、ステージ左端で回転盤を回していた東宝舞踏団員の20歳の女性が「あら、当たっちゃったわ」と声をあげた。彼女が回したのは万の単位の台。楽屋に戻っても、団員から羨望の目で見られ「本当にインチキなんかしてないのよ」と弁明にしきりだったとか。あとにも先にも回転盤を操作した本人が当てたのは彼女きり。
《1等当せん番号を伝書鳩の到着順で決めたことがある!》
昭和22(’47)年9月に行われた「鳩くじ」。鎌倉市の海岸に読売新聞社から借り受けた伝書鳩を用意。その足に数字をくくりつけ、一斉に放した。ハトは海岸を旋回したのち、帰巣本能で東京・読売新聞社の屋上にあるハト小屋を目指した。約1時間後、宝くじの担当者が待ち受ける屋上に、次々とハトが到着。小屋に入った順に当せん番号を決めていったという。ちなみに1等の当せん金は2千円だった。