部屋の隅に丸裸の死体が山積みに…100歳の宝くじ売り場店主が“シベリア抑留”から切り開いた壮絶半生
画像を見る 「宝くじは大きく当てるもの。だから販売員は常に笑顔。その笑顔が運気をあげ、大きな当たりを呼ぶんですよ」と源じい(撮影:水野竜也)

 

■爆弾を背負って、相手の戦車の下に潜り込む訓練を繰り返す日々

 

源じいが生まれたのは静岡県掛川市。米農家の次男で、14歳で当時の高等小学校を卒業後、静岡市内で手広く酒屋を営む「平喜商店」(現・静岡平喜酒造)に入店した。

 

「そのころは農家の次男の多くは住み込みの丁稚奉公に出たもので、私もその一人でした。慣れない商売でしたが、無我夢中で仕事に励んだものです」

 

そんな仕事への真面目な姿勢が認められ、1942年(昭和17年)に17歳で、現在の北朝鮮との国境に近い中国東北部・間島省延吉県図們街にあった「平喜商店」の支店「平喜洋行百貨店」に出向することになる。これが源じいの生涯を大きく変えるきっかけとなった。

 

「1932年(昭和7年)に、日本軍が占領していた中国東北部に満州国を建て、日本から多くの国民が開拓民として移住していました。図們の町にも日本人が大勢いて『平喜洋行百貨店』は生活物資や食料品、酒類を扱う百貨店でした」

 

当時の様子がわかる貴重な写真が源じいの手元にある。それが1944年1月に開かれた「平喜洋行百貨店」の新年会の際の集合写真だ。

 

「これらの写真が私の手元にあるのは、1944年に軍隊の召集令状が届き、現地・中国で入隊することになった際、身の回りの物を両親への手紙とともに“遺品”のつもりで、本土の掛川の実家に柳行李に詰めて送ったからです。当時は太平洋戦争の戦況が悪化し、満州からの郵便物はなかなか届かないことが多かったなか、奇跡的に無事に実家に届いていました」

 

こうして源じいは19歳で現在の中国黒竜江省・ハルビンにあった関東軍(満州国の日本陸軍はこう呼ばれていた)6261部隊に最年少兵として入隊。そこで待っていたのは壮絶な訓練だった。

 

「いつソ連(現・ロシア)軍が攻め込んでくるかわからない情勢のなか、爆弾を背負って、相手の戦車の下に潜り込む、まさに肉弾特攻の訓練を、毎日繰り返し繰り返しやっていました。小さいころから『お国のため』という教育を受けていましたから、なんの疑問も持たずに過ごしていたものです」

 

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