部屋の隅に丸裸の死体が山積みに…100歳の宝くじ売り場店主が“シベリア抑留”から切り開いた壮絶半生
画像を見る 1970年、「丸源酒店」の前で従業員と(左から二人目が源じい)。右隣が妻・はまこさん。家庭ははまこさんに任せっきりだったとか

 

■氷点下40度の中で重労働。シベリアの収容所では毎日仲間が次々と亡くなって

 

入隊して1年余り、1945年8月8日にソ連は日本に宣戦布告。翌9日に満ソ国境を越えて侵攻した。

 

刻々と源じいの部隊のあるハルビンにもソ連軍が迫りくる8月15日に日本は無条件降伏をする。

 

「この日、中隊長が全隊員150名ほどを一堂に集めました」

 

源じいが平岡さんと名前を記憶している中隊長は、真新しい飯盒を1個ずつ全隊員に手渡して、こう訓示した。

 

「本日、天皇陛下のお言葉で、軍隊は武装解除、解散することになった。われわれ将校は君たちとは別々に行動することになる。君たちはこの飯盒を持って生き延び、何としても内地(日本)に帰って親孝行に尽くせ。もし迷うことがあったら、自分の“第一感”だけを頼りにして生き抜いてほしい」

 

冒頭、現在も源じいが大切に保管する飯盒は、このとき手渡されたものなのだ。

 

「食べることこそ生きること。飯盒に“生きる執念”を持てという思いを込めて平岡中隊長は全員に手渡したのではないでしょうか」

 

それからまもなくソ連軍がハルビンにも侵攻。源じいたち日本兵や軍属はソ連軍の捕虜となった。

 

これまで山崎豊子の小説『不毛地帯』ほか、数多くの体験者手記によって語り継がれてきた、過酷な戦後の歴史的出来事であるシベリア抑留のはじまりである。このときソ連軍は日本兵や民間人を捕虜とし、シベリアなどに強制連行し、強制労働を強いた。捕虜になった日本人は約57万人とされ、そのうちの5万人以上が亡くなった。

 

「武装解除した私たちは侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、当初は『ダモイ(帰国)』と告げられ、日本に帰れるものと思っていたのです」

 

源じいたちの部隊は、この年9月にハルビンから横道河子まで列車で移動、そこから牡丹江までは徒歩で行軍した。

 

「10月になり、牡丹江からソ連軍の列車に乗せられました。このときはまだ内地に帰れると信じていたのですが、列車の向かう方向が北ではないかと、仲間たちが騒ぎ出したんですよ」

 

たしかに朝日が昇る東から見て、列車は北に向かっていた。ひとまず源じいたちの列車が着いたのはシベリアのハバロフスク。11月になり、よりシベリアの奥地であるテルマの収容所に移送された。

 

「テルマの収容所で過ごした最初の冬の4カ月は本当に言葉では表せないほど過酷なものでした。何日も氷点下40度になる日が続き、極寒の屋外で森林の伐採などの作業の日々。食事もとても食事と呼べるようなものではなく雑穀のみそ汁と黒パン1枚だけです。

 

つねに飢えていて、栄養失調や病気で毎日次々と仲間が亡くなっていきました。夜、寝ている私の横で仲間の一人が『銀飯(白米のこと)が食べたい』と叫んで翌朝には冷たくなっていたこともありましたよ。死体は丸裸でマネキンのように部屋の隅に山積みにされている状況。それは地獄の冬でした」

 

収容所に入って、最初の1年間は入浴した記憶がなく、しらみ、床じらみのせいで、全身がかゆく、一晩眠れないこともしばしば。生きていること自体がつらかったと漏らす。そんな源じいを支えたのは20歳という若さと、平岡中隊長の「なにがあっても“第一感”で生き抜け」という言葉だったという。

 

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