■シベリアの収容所内で元職人の戦友が名前を刻んでくれた飯盒はいまも源じいのもとに
「最初の冬が明けた1946年春に、私はテルマからモシカの収容所に移送。そこで私はロシア語の通訳をしている知り合いと出会うことができました。ロシア語を覚えることが収容所生活を生き抜くつえになるのではというのが、私の“第一感”。とにかく時間があれば必死で、最低限のロシア語の読み書きを教わりました」
モシカの収容所には軍隊に入るまで彫金の職人をしていたという人がいて、源じいの飯盒の蓋と胴の2カ所に「加藤源一」と名前を刻んでもらった。それは薄くなりかけてはいるが、いまも写真のようにはっきり判読できる。
「片言ですが、ロシア語ができるようになったことで、町の病院のロシア人医師に重宝がられ、収容所の患者との連絡員として、収容所から医師の住む官舎に移り住むことができました。まさに“第一感”が私を救ったと思っています」
1947年9月、源じいは内地帰還人員の一人に選ばれ、モシカを出発。平岡中隊長から手渡された飯盒を携えて、ナホトカ港から帰還船に乗り込んだ。
「帰還時は丸裸にされ、着の身着のままでしたから、なぜ、この飯盒を持って帰れたのか、その記憶がないんですよ。不思議です」
帰還船は京都府・舞鶴港に着く予定だったが、台風の影響で、北海道・函館港に着岸。17歳で満州に渡った源じいが再び、内地の土を踏んだのは函館の町だった。
「いっしょに帰還した戦友と函館山に登り、そこから函館の町を見下ろして、帰国できたことを実感し合いました。その場で国から支給された200円を握りしめ、市場の食堂でとにかくおなかいっぱいになるまでご飯を食べました(笑)」
数日をかけて、函館から静岡に帰ってくると、知らせを聞いた「平喜商店」の社長が静岡駅の改札で出迎えてくれたことも忘れられない思い出だ。その後「平喜商店」に復帰し、ようやく源じいの帰国後の人生はスタートした。
「1951年に『加藤酒店』という屋号で、静岡市梅屋町に店を出し独立。市内に同じ名の酒店があったことから『丸源酒店』に改名しました」
現在、96歳になる妻のはまこさんと結婚したのもこのころ。
「シベリア抑留を経験し、九死に一生を得たこの命、とにかく残りの人生を世の中のために生きようという思いが強く、仕事に専念したことから、家庭のことは妻に任せっきりで苦労をさせました」
