【前編】南樺太、ウクライナ――戦争で2度「故郷」を奪われ日本へ避難した降簱英捷さん(79)より続く
降簱英捷さん(79)は、先の大戦中に日本統治下の南樺太で生まれた。故郷は’45年の旧ソ連の侵攻により大混乱に。降簱家は日本への引揚げ船には家族の病気やけがで乗りそびれた。
望郷の念を胸に秘め、英捷さんはソ連の一部だったウクライナに移住し必死に働いた。妻の故郷で穏やかな老後を迎えるはずだったが――。
ロシアによる侵攻後、支援者の尽力できょうだいのいる日本へ帰国するも、やり残したことがあるとウクライナに戻った。そこで見た戦争の現実とは。
■旧ソ連での暮らしは苦しかったが、奨学金を得て進んだ大学で妻と出会う
降簱英捷さんは44年、南樺太に父・利勝さん、母・ようさんの次男として誕生した。無線技士だった利勝さんの転勤で、一家は樺太内の知床村(現・ノヴィコヴォ)に移住。当時樺太のうち北緯50度以南は日本領で、約40万人が居住していた。
45年に漁村の札塔で終戦を迎えるが、ここから一家にとって流転の人生が始まった。
「幼かったから記憶はおぼろげですが、父母や兄から聞いた話では、戦局が悪化してからも技師をしていて有能だったため、父に帰還許可が下りなかったそうです」
そうしているうちに旧ソ連は8月9日、日ソ中立条約を破棄。樺太の中心都市である豊原(現・ユジノサハリンスク)を爆撃したのは22日のこと。ソ連軍は一般市民にも容赦なく機銃掃射の追い討ちをかけ、日本人5千〜6千人が犠牲になったともいわれている。
戦後、樺太はソ連領となり父は魚の加工場で仕事を得たが、食うや食わず。降簱家の生活は貧窮を極めていく。
「引揚げ船に乗って帰還するチャンスを逃したのは、兄の信捷が荷馬車の車輪に足を巻き込まれ大けがをして半年寝たきりだったことが大きかった」
さらに48年の冬に生まれた妹タカ子さんが生後3カ月で急死してしまう不幸も重なった。引揚げ船は49年で完全に途絶えた。
53年、最高指導者だったスターリンが逝去したこの年、一家は350キロ北に離れたポロナイスク(旧名・敷香)へ転居することに。
「父がコルサコフ市役所に呼ばれ、転居を命じられたのです」
英捷さんが9歳のときのことだ。この地では妹たちが生まれ8人家族に。
日本に戻れる可能性が少なくなり、父が製紙工場で働くために住民登録が必要となったので、ソ連人として生きていく決断をした。一家がソ連国籍を取得したことは降簱家にとって転機となった。
「それまでは住民登録もできないし、ないと就職が難しくなる労働手帳ももらえない。2部屋しかないバラックが与えられるだけで父は懸命に働いても、最低限の賃金しかもらえませんでした。しかし、このときから昇給も年金も望めるようになりました」
高校卒業後、英捷さんは父と兄の信捷さんが働くポロナイスクの製紙工場に職を得た。そして持ち前の向学心により、工場から派遣される形で製紙業の専門科目のあるレニングラード(現・サンクトペテルブルク)工業大学への入学切符を手に入れた。
「志願者が現地へ赴き、正規の試験を受けて選抜されます。職場からは奨学金が支給されましたが、成績が悪いと打ち切られ故郷に戻る人もいた。卒業後、企業に戻り3年はお礼奉公がありました」
大学では英捷さんの人生を好転させる学びと出会いに恵まれた。
「家族と遠く離れた寂しさもありましたが、寮生活では私を異端者として扱わない生涯の友人たちもでき、さらに伴侶となる女性との出会いもありました」
妻となるリュドミラさんも向学心旺盛な女性だった。当時のソ連では20歳前に結婚する女性も多いなか、一度就職をしたあと、大学に再入学していたため英捷さんより3つ年上。清楚で控えめながら信念を感じさせる女性だった。
「物静かな性格も私と似ていて気が合いました。控えめですがこのときは彼女のほうから『知り合いになりたい』と意思表示をしてくれて。それですぐに学生結婚です」
結婚の翌68年に長男ヴィクトルさんが誕生。夫婦ともに無事に大学を卒業し、サハリンのポロナイスクに戻り一家3人の生活が始まった。しかし気候の温暖なウクライナで育ったリュドミラさんにとって、厳寒のポロナイスクで過ごす冬は厳しいものだった。
「その後ウクライナへの移住を決めたのは、妻の希望でもありました」