■「私たちは何もしていないじゃないか!」先輩の読書会に刺激を受け、翻訳スタート
“加島葵”のメンバー11人が通った学舎は、彼女たちが過ごした昭和30年代と変わらず現在も東京都文京区にある、「お茶の水女子大学」。女子高等師範学校として創立150年の歴史を誇る国立の女子大だ。
11人は全員、文教育学部英文科専攻。当時は、いちばん定員が多い国文科でも25人。英文科は15人の定員だったところ、入学したのは少し多めの18人だった。
「1学年1クラスでその人数ですから、何をやるのもクラス全員で動くような感じ。だから、自然に仲よくなるんです」
と出会いを振り返る石﨑宏子さん(85)。
「地方から上京した方も半分ほどいらしたので、『わが家に遊びにいらっしゃいよ』って誘うと、クラス全員来ちゃうのよね(笑)」
天野輝子さん(85)も思い出話に花を咲かせる。
「入学したばかりのころ、先輩が多摩のほうにピクニックに連れていってくださって、とてもあたたかい雰囲気の学校だなあって」
大学卒業後はそれぞれの道を歩んだ英文科の面々。年に1回のクラス会以外は年賀状のやり取り程度のつき合いだったという。
それが卒業から18年ほどたったころ、子どもの手が離れた人や、夫の赴任先から東京に戻ってきた人たちが定期的に集まり始めた。
さらに同時期、大学の先輩たちが原書の読書会をしていると知り、「先輩は勉強を続けているのに、私たちは何もしていないじゃないか!」と奮い立った。それが、“加島葵”の最初の芽だった、と石﨑さん。
「せっかく英文科を出たのだからなにかに生かそうと思い、グループ翻訳を選びました。まず、子ども向けのものからやってみようと。一人では、取りかかる気分になれなかったのです」
「個人よりグループのほうが楽しいし、よいものができると思いました」と島村素子さん(85)も同調する。
’81年の夏、最初に参加した7人で、「ななの会」を結成。共同ペンネームは、7人の名前の頭文字を組み合わせ、漢字を当てた“加島葵”に決めた。
首都圏在住の専業主婦を中心に出発した会には、のちに海外から帰国した人や英語の講師をしている人など4人が加わった。
出版社で働く大学の同級生から、日本ではオーストラリアの児童書があまりないと聞き、まずは大使館の図書館で作品を選ぶことからスタート。
原書をコピーして、章ごとに担当を分担。事前に各自で訳を準備し、週に1度集まって訳文を全員で検討、修正する。1冊分の訳が完成しても、2稿、3稿、最終稿と検討を重ねて、よりよい訳がないか探り続ける。
「久しぶりに英語に触れるのもうれしかったです」と岡本さん。
「何よりも、みんなとおしゃべりができるのが楽しくて。この日は英語の日と決めて、どんなにパートや家事で忙しくても最優先でした。検討や修正をするときは侃々諤々?やりますけれど、それは翻訳上のこと。終わったらパッと切り替えて」
午前10時に集合し、昼には各自持参した弁当を食べ、夕方5時まで。納期に追われることもなくサークル活動のようにのんびりとやっていたが、やがて出版したいと思うように。
そこで、営業担当の岡本さんが中心となり、訳が終わった原稿を出版社に持ち込み、出版に向けて交渉を始めた。すると、そのかいあって、’93年5月、最初の本『魔少女ビーティー・ボウ』(新読書社)の出版が決定した。
“加島葵”の誕生から12年、待望の初出版の心境を、石﨑さんは「初出版寿ぐごとく風薫る」と詠んだ。朝日新聞の日曜版に書評が載ったり、本を送った学校から感想をもらったりと、手ごたえも大きかったという。
続けて、やはりオーストラリアを舞台とした、犬のセルビーが活躍する『おしゃべり犬の大騒動』シリーズを出版。メンバー全員でオーストラリア旅行も決行した。『魔少女ビーティー・ボウ』の舞台となった街を訪ねたり、セルビーシリーズの原作者にも会うことができた。石﨑さんによると、
「原作者にお会いしたいとお願いしたら、本当に会いにきてくださって。しかも、サプライズだったのよね。主人公のセルビーも着ぐるみで現れて(笑)」
これをきっかけに、アイルランド、英国、イタリア……と20年で10回の海外旅行を実現させた。アイルランドでは、本屋をめぐって翻訳のための児童書を探し、それが最後の翻訳本『魔法のルビーの指輪』につながった。
