■“男は仕事、女は家庭”と言われた時代。加島葵は“自分が主役の物語”が作れる場所
彼女たちがお茶の水女子大学を卒業したのは’62年。“オリンピック景気”と呼ばれた好景気がスタートした年で、就職は売り手市場。しかし当時の女性は、就職しても“腰掛け”がほとんどで、結婚相手が見つかり次第、寿退社するのが当たり前だった。
それは、お茶の水女子大学卒でも同様。メンバーの大半は就職後まもなくお見合いで結婚し、仕事を辞めた。
「当時は、25歳までに結婚しないと売れ残りのクリスマスケーキ、と言われた時代ですから(笑)。女性の正社員は高卒までで、大卒の場合、正式採用ではなく嘱託になるんです。入社後2年ほどで辞めることになるからと。研修は早慶や東大の男性と一緒に受けさせてくれたんですけどね。お茶くみもしました」
と語ったのは岡本さん。“加島葵”の活動を通して、自分のよりどころができたと感じたという。
「ほかの活動もしたけれど、やはり、仲間と楽しくおしゃべりができる場所というのは、私にとってオアシス(笑)」
戸田徳子さん(85)は、自分のことを次のように語る。
「私は典型的な見合い結婚。独立心もなく、常に夫を立てて生活していました。なぜそうなのか。それは、自分に自信がなかったから。大好きな英語がもっとよくできれば、自立していたのかなとも思います。時代的にも、姑や夫によく仕えることは美徳でもありましたし、それを否定したら自分の生き方を支える柱がなくなると思っていました。
その後、夫の転勤が落ち着いて東京に戻ったのが50歳。これが最後のチャンスと奮起した私は、『社会の一員になりたい』と思ったんです」
中学・高校の英語の時間講師の職に就きつつ、’96年より“加島葵”の活動に加わることに。
「“加島葵”は、私にとって代えがたい存在です。今は遠方のシニアレジデンスに入っていて体がいうことをきかないけれど、できるものなら参加したいという気持ちは変わりません。これまでと同じように、仲間と一緒に死ぬまで続けたいですね」
子どもの手が離れた後、長年、編み物教室で先生をしていた島村さんは、3年間、夫の赴任先のブラジルに滞在中も、ずっと“加島葵”の活動を続けていた。
「新聞記者や建築家など、なりたい職業がなかったわけではないけれど、どこかで女はこれ以上無理だと思ってしまったんですよね」
夫の介護で忙しくなってからは、夫のデイサービスの時間だけ翻訳活動に参加していた。
「これから先のことはわかりませんが、この会に参加できて本当によかったと思っています。一つのことを長く続けられて、楽しかったです」
女性の社会進出や、仕事と育児との両立が難しかった時代。“加島葵”の活動は、母親業が落ち着いたメンバーにとって、自分のためのセカンドキャリアでもあった。
生まれ育った東京を離れ、北九州で12年暮らした石﨑さんは、手伝ってくれる親がいない環境で3人の子育てに奮闘。東京に戻ってからは、学会誌の編集事務のアルバイトを始めた。
「専業主婦だけど、やっぱり、ちょっとなんかやりたいと思って」
“加島葵”の活動は、さらに石﨑さんの世界を広げた。
「みんなで海外旅行に行くようになったのはこの活動がきっかけです。家族には、『取材よ、メンバー全員行きますから!』って説得したりしました(笑)」
一昨年夫を亡くした彼女にとって、“加島葵”は大切な場所だ。
「あそこに行けば話ができる。そう思える場所があるのは、とても大事。何を話しても悪意にとられる心配のない仲間は何よりありがたくて。今後、本が出なくても、この会は続けたいです」
市川春子さん(85)は、30歳から4年間、京都で暮らしたが、帰京後は義母と同居。家事と育児がほとんどの時間を占めた。
「家にばかりいると息が詰まるので、会の集まりはいい気晴らしになりました。子どもの手が離れてからは自分の好きなことをやろうと思っていましたし、翻訳活動が私の生活の一部になりました」
中学生のころから翻訳本を読みあさり、就活時は出版の仕事に就くことも考えた市川さんにとって、“加島葵”の活動は「夢にも思っていなかった」ことだという。
「仲間と本を翻訳して海外旅行までしちゃうなんて、私たちってすごい。私にも、自分が主役の物語ができたじゃん! って(笑)。平凡な人生でもいいやと思っていたけれど、少し華やぎました。本当に“加島葵”のおかげです」
一方で、“男は仕事、女は家庭”とされていた当時に、男社会の職場で果敢に働き続けたメンバーも。
天野さんは、卒業後、外資系の電子計算機の会社に就職。
「女性もバリバリやっている会社でした。『だから女はダメだ……』などと言われないように、私も頑張らなければ、と思いました。
講習会の先生になった後、プログラミングの教科書を翻訳・作成する部署に移り、結婚後も、契約社員として技術翻訳の仕事を69歳まで続けました」
情報処理用語集という分厚い用語集を駆使しながらの翻訳は、1冊に半年かかることも。
「常に最新知識が求められ、勉強が必要でした。でも、勉強よりも大切なのは世の中の子どもたちの心をよく見てあげることで、心を育むにはやはり本がいいな、と。だから、“加島葵”の活動はとても素敵だと思って。仕事は忙しかったけど、一生懸命に通っていました」
英語力を生かし、原作者とのやりとりを担当していたのは柿田紀子さん(85)。
「私はなんといっても英語が好きなんです。趣味として、自己研鑽として、いまも毎日英語の本を読んでいます」
結婚を機に一度仕事を辞めた後、夫の転勤でニューヨークに滞在。その後、札幌の大谷大学短期大学部、北里大学で英語の非常勤講師に。
「私は、学生を一人指名して翻訳させる授業が好きではなくて。グループで討論させ、皆で説明してもらうという形式をとっていました。“加島葵”の翻訳スタイルに近いかもしれません」
数年前にくも膜下出血で手術をしてからは一人で外出ができなくなった。
「みんな、人の気持ちをわかってくれようとしてくれる人たち。この会に参加して、本当によかったと思います」
