■最後の作品と決めたけれど、意欲はつきない。未出版の翻訳原稿はあと段ボール1箱分!
メンバーのなかには、さまざまな事情で参加できなくなった人もいる。彼女たちの心に“加島葵”の存在はどう映っているのだろうか。
70歳を前にして介護のケアマネジャーとなり忙しく働いていた斎藤紀公子さん(85)は、自身の健康を考えて、「ここでやめます」と自ら宣言し、現在はシニアホームで生活している。
体調を崩してから外出が難しくなった加藤千穂さん(85)は、会を欠席しても活動には参加していた。
「みんなが翻訳した原稿をまとめていました。いつもみんなと会えて、わいわい、一緒に活動できるのは楽しかったです。いい仲間だと思います」
いちばん会を続けることに積極的だった川本光子さん(85)は、半年前に脳梗塞を患い、現在はつえを使って暮らしている。
「最初の本を出版したとき、オーストラリアの大使館員の方がとてもよくしてくださって。姉妹都市にも、大使館が本を買って寄贈してくださったんです。そういう出来事がすごく励みになりました。
自分が弱っているから特にそう思うのですが、活動に戻れなかったら生きている意味がありません。だから、会の活動に戻ることがいまの生きがいです」
万仲純子さんは、’18年に亡くなってしまった。
「いつもほほ笑んでいて、感情を表に出さない人でした。卒業後すぐに結婚されて、舅姑と同居しながらお子さん4人を育てていました。『仕事をしたいと思わなかった?』と聞いたら、『うん、そんなこと考えている暇もなかったの』と言っていましたね」
そう戸田さんが彼女の思い出を語ってくれた。『魔法のルビーの指輪』ができた際には、“加島葵”の活動に協力的だった彼女の長男に本を送り、最後の出版を報告したという。
ただ、未出版の翻訳原稿はあと段ボール1箱分ある。続編を読みたいという声も届いている。
「40年も続けてきた会なので、できれば火を消したくないなと思っています。やり続けていれば、さまざまな事情で出席できないメンバーも戻ってこられるかもしれない。今後も、一冊、二冊と出版できたらいいのですが」
と意欲を見せる石﨑さんに天野さんもうなずき、作家としての長所をこう語る。
「地球や環境問題について書かれた『こども地球白書』や『ちきゅうはみんなのいえ』(くもん出版)など、次の世代の人たちに考えるきっかけを与えるような作品を出してきたこと。わずかでもいい影響が与えられたのなら、自分たちも誇らしいなと思います」
そんな意義のある活動を続けてこられたのも、よい本を探す時間も、翻訳する時間も十分ある主婦集団だったからこそ。
「特に能力が優れているわけではなく、みんなわりと平凡な主婦だったんです。でも、みんなでやれば、ある程度まとまったことができる。そういう証しになってくれたらいいなと思います」
と石﨑さんが語るように、“加島葵”は11人で一人前。会長も副会長もいない、全員が平会員。誰かができないときは誰かが補う。自然に生まれた形が会を長続きさせてきた源だった。「40年間、一度ももめたことがない」と全員が口をそろえて言うのも納得だ。
思えば大学時代から、みんなで活動するのが当たり前だった。クラス全員が参加した文化祭の劇の題材は、当時最も世間を騒がせていた皇太子殿下(現在の上皇陛下)のお相手選び。候補には、元皇族の令嬢が名を連ねたが、皇太子が選んだのはお茶の水女子大生だったという筋書きを作成し、上演した。この劇は、コンクールで1位を獲得。
「川本さんが丸眼鏡をかけて、ガリ勉のお茶大生を演じたんです(笑)」
皇太子役だった岡本さんは、いまもセリフを覚えているという。
「『私はお茶大生を選ぶものであります』って言ったの(笑)」
どんなに優秀な成績でも、女性というだけで能力を存分に発揮することがかなわなかったあの時代。しいて逆らうこともなかったが、自身の選択に後悔がなかったかといえば、そうとも言い切れないのかもしれない。
常に失うことがなかった誇りと、少しの反骨精神とが生み出した“加島葵”が、彼女たちにかかった「女の子らしく」の呪いを解いたのだろう。
(取材・文:服部広子)
画像ページ >【写真あり】ある年のクラス会にて。4人をのぞいた11人が“加島葵”。クラスの人数が少なく、先輩と一緒に授業を受けることも(他7枚)
