グルメ
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豆苗と空芯菜の炒め
2008/04/11 00:00今週は『春野菜SP』 4『豆苗と空芯菜の炒め。』豆苗の旬が春ということで、大好きな空芯菜炒めに食感の違う豆苗をプラス。味付けは、簡単!!類粒の鶏がらスープのみ!! で決まります。癖が全くないので、どんどん進みますよ~!!お試しください☆■材料(2人分)・豆苗 1パックの半分50g(半分にカット) ・空芯菜 3束50g (葉と茎にわけて6cmにカット)・にんにく 小さじ1(みじんぎり) ・輪切り唐辛 -
春野菜サラダにとろーりホワイトチーズソース
2008/04/10 00:00今週は『春野菜SP』 3『春野菜サラダにとろーりホワイトチーズソース』レンジで簡単!! あつあつのチーズソースをかけていつもと違うサラダは、いかがですか。きっと癖になりますよ。お試しあれ~☆ ■材料(2人分)・春キャベツ ・レタス(食べやすいサイズにちぎる)・アスパラ(5cmに切る)・ミニトマト(半分に切る)・ホワイトチーズソース(ホワイトソース70g、ピザ用チーズ30g、牛乳大さじ1、すりおろし -
春キャベツと照り焼きチキンのピザ
2008/04/09 00:00今週は『春野菜SP』 2『春キャベツと照り焼きチキンのピザ』簡単!! 照り焼きチキンは、なんと焼き鳥の缶詰で代用~!!春キャベツは、少し火を通すだけで甘みが増すんです。5分で出来ます。おやつに、夜食に、喜ばれますよ~お試しあれ~☆ ■材料(2人分)・春キャベツ 適量(あらく刻む)・お好きなパン(今回はフランスパンを使用しました。)・焼き鳥の缶詰 1缶(タレ)・ピザ用チーズ ・マヨネーズ■作り方1. -
春野菜と豚バラ肉の塩あんかけごはん
2008/04/03 00:00はじめまして!寺田真二郎です。ブログを開けていただいてありがとうございます。今日から料理ブログを始めることになりましたー!!これから平日毎日、料理をバンバンUPしていきますので宜しくお願いします。と勢いづけてみたものの・・・・笑実は、そんなに料理に詳しいわけでもなく・・・え、えっと、あの・・・、趣味は料理です。という程度なので・・・・、温かい目で見守って頂けると幸いです。このブログで1人前になれる -
(第5回)大事なのは心と人がら、命がけ
2008/03/19 00:00もうすぐ創業60年。常連さんも4代目に入り、娘を"はるき"ちゃんと名付けた人もいる。調理場の若そうな職人さんが「今年で21年目ですね」とサラッと言ったりもする。ふた駅となりの吉祥寺にもお店を出した。二代かけて築いた味をこの先誰に伝え、のれんを守っていくのか? 「みんな心が違うから、僕と同じにしろって言っても無理ですからね。でも"ハイ、おそばできました"って、ただ作ればいいってもんじゃない。やっぱ -
(第4回)四拍子揃ったお店にしたかった
2008/03/18 00:00先代の今村五男さんが現役だった昭和56年、NHKの「きょうの料理」で春木屋の中華そばが取り上げられた。おそらくは公共の電波で、ラーメンが"料理"として認められた初めての出来事。そしてその2年後、春木屋は130人の行列を記録する。 「忘れもしない昭和58年。最後のお客様まで5~6時間はかかりました。皆さん召し上がると後ろの人を気にして、すぐに席を立って。うれしい反面、申し訳なかった」。感慨深げにそ -
(第3回)追求に終わりはなく、味に完成はない
2008/03/17 00:00「親父がいた頃は楽でした。自分のやることだけやってればよかった。でも親父が引いてからは、このままじゃダメだなあ…って」。 消えては現れる競合店、高級志向の家庭用ラーメン、どんどん贅沢になっていく消費者の味覚。「おじさん、今日のうすいね」「ああそうかい」…父の時代には許されたブレも、この先きっと通らなくなる。老舗ののれんを守るための、二代目の味の追求が始まった。 「どの粉が一番おいしいだろう? で -
(第2回)“昔の方がおいしかったね”と言われないように
2008/03/16 00:00創業当時のラーメンでは今のお客さんに受け入れられない、そう語る「春木屋」の今村幸一さん。「もちろん味の柱は崩してないですよ。でも戦後の配給下で小麦粉も調味料もまともになかった時代。お客さんの舌も痩せていたから美味しく感じた、それもあると思います」。そしてそれ以前に現在、昭和20年代と同じものは作りようがないと言う。 「昔ながらのラーメンやってますって言っても、昔の粉はないんですから。昔は地粉でや -
(第1回)徹底的に高めた一杯の価値
2008/03/15 00:00言わずと知れた名店。"昔ながらの東京ラーメン"と聞いて、どれだけ多くの人がこのお店を思い浮かべるだろう。抜けるように香る、かぐわしいスープ。無駄をきれいに削ぎ落とした、まさに引き算の完成形。「ラーメンって、ここまで研ぎ澄ますことができるんだ…」、素材も手間ひまも決して惜しまず、こだわり抜いて作られたことが、ひと口でわかる。高級感あふれる上品な一杯。創業昭和24年の老舗「春木屋」荻窪本店の中華そば -
(第5回)“態度悪い”と豪語する人気店主
2008/02/21 00:00この30年、増築のチャンス、チェーン展開の誘いも断り、ひとりの営業にこだわってきた小林さん。「人間、生まれながらに器量っていうのがあってさ。10人使える人、100人使える人、1000人使える人、もう最初から決まってる。たぶん僕は、人使うタチじゃない。結局自分でもなんでもやっちゃおうと思うから。それに“食べ物屋と屏風は広げると倒れる”って言ってね。狭い店内だから活気も出るし繁盛もするんで。それを広げ -
(第4回)30年、ひとりで続けた
2008/02/20 00:00おやじさんの死の前後、店員たちは独立。一人残っていた番頭さんも出ていき、小林さん一人になった「福寿」。「ずっと店閉めてたんだけど、表そうじしてたら『お前いつまで閉めてんだ? 商人がいつまでも休んでんじゃねえぞ!』って。お客さんにそう言われて、“やんなくちゃいけないのかな?”ってさ」仕込みを手伝っていた“お袋”さんの知恵を借り、小林さんはひとりで二代目「福寿」を始めた。「1人で300食、5〜6時間で -
(第3回)そば屋は釜前で味が決まる
2008/02/19 00:00戦後復興から高度成長へ。日本ラヂエーターを始めとする近辺の会社に、1社100杯単位での出前、毎日700〜800食を出していたという昭和20年代の「福寿」。出前だけで10人の従業員を駆り出していたというが、小林さんがお店に入ったのは、そんなピークをやや過ぎた頃。「店の掃除。それからどんぶり洗いと出前だよね。重たいんだよ、自転車で出前するのって。おか持ちに10杯入れて、下げていくんだから。友達も出世し -
(第2回)戦後復興。日本そばじゃ物足りなかった
2008/02/18 00:00「昔はレンゲなんてワンタンだけで、ラーメンにはついてなかったんだよ」そう語る店主の小林さん。銀座に出店した札幌ラーメンの店が、手に持てない重いどんぶりで提供を始めたのがレンゲのはしり。それまでは日本そばと同様、どんぶりを手で持ってつゆを飲むのが普通だったという。僕もやってみる。ゴクリ飲み込む。喉にまでスープの風味が広がる感じ。「だから面白いよ。今日は特別おいしいなと思う時は、みんなどんぶり持って下 -
(第1回)昭和26年創業、老舗の中の老舗
2008/02/15 00:00おそらくは、最も初期の中華そば。“そばつゆ”の味わいにも似た、醬油の旨みが広がるスープ。まとまりよく茹で揚げられた麺は、細身なのに“腰”が強く、つゆがとてもよく馴染む。だからついつい、ズズッとすすってしまう。ズズッ、ズズズッ…すすって味わうこの感じ、たぶんラーメン本来のおいしさ。ラーメン500円、そして人気の上五目、770円(写真)。ゆで玉子、ナルト、カマボコ、ほうれん草、しいたけ…おせちのお重を -
(第4回)シャッターの下りる街に、そして帰ってきた
2008/01/18 00:00味は人なり。お店の看板が一緒でも、作る人が変わるとすべてが変わってしまうことを、山口家の江口夫妻は体験した。昨年の2月から12月まで若い人にお店を任せ、一度は“代替わり”をした2人。他の千束通りの商店街でも流れる時代の趨勢で代替わりをしたり、後継者が見つからずシャッターを下ろす店が増えていた。「特にこの10年は景気悪いね。大型店にお客さんは流れていくし、若い人も減っていくし…さみしいですね。この通 -
(第3回)独学の自己流、ママさんの特製スープ
2008/01/17 00:00「そうだっけ? スープの味、作ったの私かな?」と豪快に笑う、山口家の“ママさん”こと江口友子さん。すかさずご主人が「そうだよ(笑)」とツッコむ。鶏・豚に玉ねぎ、長ねぎ、にんにくなどでていねいに作ったスープのベース。しっかりと舌にコクと旨みは来るのに、全然しつこくない。年配の女性のお客さんたちが、おいしそうにすすっているのも納得だ。「けっこうあっちこっち食べには行ったよね。他の店で修行? 全然しない -
(第2回)40年前、“支那そば時代”だった
2008/01/16 00:00「おしるこやあんみつだけじゃ、やっていけなくなって、それで始めたんだよね。最初は焼きそば。それでお客さんに“支那そばはないの?”って言われて。もう40年は経つかな?」。甘味処で何故ラーメン?との質問に、「山口家本店」の2代目主人・江口勝弘さんはこう答えた。愛知出身の江口さんにとって義理の母にあたる、先代のおばあちゃんが昭和21年に甘味処としてお店を始めて15年。昭和40代の浅草――今から見ればじゅ -
(第1回)生粋の浅草の下町、老舗の甘味処にて
2008/01/15 00:00古き良き日本の象徴といえる街・浅草。正月の盛りを過ぎても浅草寺へ続く仲見世通りは参拝に訪れた人、人、人であふれ返り、演芸場近くの赤ちょうちんが並ぶ横丁では、ジャンパーを着込んだおじちゃん達が、昼から煮込みで一杯やっている。そんな、TVでよく見る観光地チックな中心街を抜け、ひさご通りの大きなアーケードを背に大通りをひとつ超えると、“暮らしの場”としての浅草の街が見えてくる。店頭におそうざいの焼き鶏を -
(第4回)シビアな視点と謙虚な努力が、万人向きの味を作る
2007/12/21 00:00お昼からビールでほろ酔い気分の常連さんはもちろん、最近では東京の名所として、海外からの観光団も多く訪れる「思い出横丁」。「若月」にもガイドブックを見た海外からの団体様がやってくる。「香港、台湾から、すーごい、今! お店じゅう、海外のお客さんばかりの時もありますよ」(芙美子さん)。「ポークラーメン? OK、OKってチャーシューメン作ったりね。中国の人はおいしい時「イチバン! イチバン!」、ヨーロッパ -
(第3回)ラーメン作りの根底にある、故郷・新潟での雪下ろし体験
2007/12/20 00:00新潟の農家で10人兄弟の末っ子に生まれた次作さん。「東京に出て来るまでは、山奥で土方やってた。楽しかったよー、何も考えないで働いてるだけだから。山でね、地すべりが起きるの。止めないと信濃川に土砂が流れて、川がつまって洪水になる。その地すべりを止める工事の、さらに準備の工事。道を作るんだね、工事の機材とかを運ぶための道を。その工事」 そして冬に積もる4mの豪雪。「家守るの大変なんだから! 雪おろしじ -
(第2回)戦後の闇市時代、映画のワンシーンのような思い出話
2007/12/19 00:00「思い出横丁」の歴史は昭和23年頃、戦後の闇市にまでさかのぼる。小麦粉が出回らず、ラーメンもうどんも口にできなかった時代。「この通りができた時からお店はあったけど、最初はおイモとか出してたみたい」(芙美子さん)。当時店を切り盛りしていたのは、まだご存命の初代のおばあさん、若月さん。そして次作さんのお姉さん。荒川の方で営んでいた食堂が戦火で焼け、戦後新宿に流れてきたのがはじまりだったという。今の半分 -
(第1回)小さなお店ののれんを守り続ける3代目ご夫婦
2007/12/18 00:00忘・新年会シーズン。帰り道で食べたくなる、飲んだ後のラーメン。もしそこが新宿だったら、ちょっと冒険して西新宿の「思い出横丁」をのぞいてみてほしい。赤いちょうちんに「自家製手打ちらーめん」と書かれたのれん。ほろ酔い気分の常連さんが並ぶカウンターに腰かければ、ほっこりと温かい湯気が立つ、やさしい味の醬油ラーメンが出てくるはずだ。新宿「若月」の「手打ちラーメン」(400円)。麺は毎日ご主人がお店の2階 -
(第4回)火加減、煮干しの味の出方には細心の注意を
2007/11/15 00:00メルシーの味は変わらない。僕も15年通っているが、味にブレがない。特にスープがいつも熱い。15年、ぬるかった記憶がない。その事を先代の店主・日出男さんに伝えると「変わらないって…ラーメンの作り方はだいたい同じだよ!」と一笑に付されてしまった(笑)。 「火加減、にぼしの量には毎日気をつけています。たぶん、にぼしは他のお店よりもたくさん使ってる。日によってにぼしは味の出方が違うから、毎日食べて確かめ -
(第3回)たくさん、手早く。だけど丁寧に作る
2007/11/14 00:00今年90歳の創業者、小林日出男さん。今も毎日、夕方から厨房に出ているが、現在メインで店を切り盛りしているのが、2代目の小林一浩さん(46)。先代・日出男さんの親戚で、大学時代に店で居候をしながらアルバイト。大学卒業後、2年ほど会社勤めをしたものの「せっかくの縁だから」と思い直してメルシーで働く事を決める。養子入りして文字通りお店と“結婚”し、今日まで20年間、先代の味とポリシーを受け継ぎ、守り続 -
(第2回)「客は学生。値上げは極力控える」がポリシー
2007/11/13 00:00戦前は喫茶店を経営、戦火で店を失った終戦後は、当時進駐軍に接収されていた新宿伊勢丹で10年間バーテンダーをやっていた小林さん。進取の精神に富み、進駐軍仕込みのハンバーガーを、後に開店するメルシーでも出してみたという。ただ昭和33年当時の日本人にハンバーガーはまだ馴染みがなく、メニューから消えてしまった。 昭和45年に現在地に移転するまでは、早大南門近辺で営業していたメルシー。現在も看板に「軽食」